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[寸評]教育者・蒐書家・鑑定人 狩野亨吉 生誕150周年記念展

会場:東京大学 駒場博物館
会期:2015年10月17日(土)~ 12月6日(日)
評者:吉岡 悠平

諸般の事情から掲載が遅くなってしまいましたが、昨年の終わりに開催された「教育者・蒐書家・鑑定人 狩野亨吉 生誕150周年記念展」の寸評を書きたいと思います。

狩野亨吉という人物を知っている人は、いまではほとんどいないでしょう。生前、狩野は論文や論説をたくさん書いているのですが、まとまった著書は残していません。また、社会運動に参加したり、政界や経済界に深くかかわったりすることもなかったようです。さらに、四十代前半で京都帝大の教授職を辞したあと、七十八歳で死去するまでのあいだ、東京の小石川にて長い隠遁生活を送っています。このように、狩野は歴史の表舞台に立つような人物ではありませんでした。「狩野亨吉」の名がほとんど忘れ去られてしまっているのは、ある意味では仕方のないことなのかもしれません。

ですが、歴史に名を残すような活躍はしなかったものの、狩野はきわめて魅力的な人でした。教養の高さと懐の深さを兼ねそなえた高潔な人物だったというだけではなく、事業に失敗して自身の蔵書を売り払わなければならなくなったり、女性に対して異常なまでの興味を示したりと、人間味にあふれた人物でもありました。そんな狩野亨吉という人物の魅力に焦点を当てたのが、この展覧会です。ここでは、狩野の人物像に触れつつ、本展覧会の内容や意義を紹介していきたいと思います。

展覧会は、狩野が自身の前半生をふりかえったメモからはじまります。このメモには出生から東京帝大を卒業するまでのことが書かれていますので、彼の人格形成の過程を窺い知ることができます。また、このメモには、狩野が生涯をつうじて追求した二つのことがらについても言及されています。

一つは学問です。狩野は天才型の人間だったようで、特別な努力をしなくても勉強ができたそうです。ただ、数学だけは苦手にしていました。しかし、狩野はメモのなかで「中学を出るまてハ何事に付て人より劣ると云ふ事非さりしか此一科[数学]のみハ甚た不出来なりき」と回想しています。ところが、驚くべきことに、狩野は東京帝国大学理学部の数学科に進学しました。その理由について、青井は「数学が万有科学の基礎であることを覚知したからであった」と述べています。つまり、数学は学問の基礎なのだから、「学徒」である以上、何年かかってもそれを習得しなければならないと狩野は考えたのです。ここに、知の追求者としての狩野の姿を見ることができるでしょう。

もう一つは女性です。本展覧会では性の追求者としての狩野の姿はあまりクローズアップされていませんでしたが、狩野は女性に対しても並々ならぬ関心を抱いていました。狩野はメモのなかで、数学のことについて言及したすぐあとに、「十才の頃にも美女をハ気に止めて記憶せり」と、女性に対して興味を持ち始めたころのことを回想しています。このことからも、狩野の人生において、知と性は並びたつ重要なファクターだったということが窺えます。ちなみに、その後も女性への関心は強まるばかりで、一生涯独身であったものの、膨大な量の春画を蒐集し、自分でもそれに類した絵を描くなどしていたようです。

さて、展覧会は狩野の青春期にすすみます。先述のように狩野は東京帝国大学理学部数学科に進んだのですが、四年後に無事卒業して理学士の学位を取りました。しかし、狩野はそれだけでは飽き足りません。その後すぐに哲学科に再入学し、こちらでも学士号を取ってしまいます。資料によると、当時でも文学士と理学士の両方の学士号を持つことはまれだったようです。しかも、「学問の王」たる哲学と、「学問の女王」たる数学を専攻していたわけですから、まさに知の追求者としての面目躍如といったところでしょうか。

また、狩野が哲学を学んでいたころ、東京帝国大学の文科には夏目漱石、正岡子規、芳賀矢一などが在籍していました。そのなかでも、とくに漱石とは交流が深かったようで、その関係は大学卒業後もつづきました。たとえば、狩野が一高の校長であったとき、ロンドン帰りの漱石を英語講師に周旋したという資料が残っています。さらに、後年の狩野の日記には、漱石が危篤に陥ったさいに見舞いに訪れたこと、葬儀で友人総代として弔辞を読んだことなどが書かれています

大学を卒業したあと、狩野は教育の道に入ります。最初に赴任したのは金沢の第四高等中学校で、その次に熊本の第五高等学校にうつりました。資料によると、狩野は哲学、数学、天文学などを教えていたようです。しかし、熊本にうつってから一年もたたないうちに、東京大学教養学部の前身である第一高等学校の校長に任ぜられます。このとき、狩野はまだ三十三才でした。

一高の校長に着任してからは、のちにさまざまな分野で活躍することとなる、多くの有能な若者たちを指導しました。鳩山一郎、岩波茂雄、吉田茂、谷崎潤一郎などがその例です。校長としての狩野は、精錬実直な人柄と面倒見のよさで生徒たちから慕われていたようです。たとえば、生徒だった補永茂助からは、「先日は御多忙中をも弁へす甚た勝手失礼なる御訪問を申上げしに御怒りも無く懇々と愉快に御はなし下されしのみならす......」とお礼の手紙が届いています。また、生徒の授業料減免のために力を尽くしていたことがわかる資料も展示されています。これらの資料からは、学識の高さや自分の地位を鼻にかけず、生徒一人一人に真摯に向き合いながら教育に携わっていた狩野の姿をうかがい知ることができます。

一高の校長を八年間つとめたあと、狩野は京都帝大の文科学長に任ぜられます。京都帝大では、倫理学の講義を担当しました。また、東大との差別化を図るために実学志向の教育方針を打ち出すなど、文科の教育改革にも取り組んでいたことがわかる資料も存在します。しかし、着任から二年後に、狩野は職を辞しています。表向きは病気が理由となっていますが、実際のところは官僚機構としての大学にほとほと嫌気がさしたからのようです。

先述のとおり、京都帝大を辞職後、狩野は東京にもどって長い隠遁生活を送ります。隠遁生活のなかで、狩野は蒐書と鑑定に力を注ぎました。蒐書に関しては、学生のころから膨大な数の書籍を集めていたようです。京都帝大を去った年の蔵書目録からは、狩野が当時としては信じられないほど多くの本を蒐集していたことがわかります。また、狩野は蒐集した本を秘蔵することなく、頻繁に友人に貸していました。漱石も狩野から本を借りていたようです。

蒐書家としての狩野の最大の功績は、江戸時代の思想家である安藤昌益を発見したことです。明治三十二年、狩野は昌益の『自然真営道』という著作(全百一巻におよぶ大著です)を入手します。この展覧会では、狩野が東京帝国大学図書館に売却した『自然真営道』の一部が展示されていました。昌益の自然観や徹底した平等主義は、日本思想史上類を見ないものです。これに気づいた狩野は、「大思想家あり」として世に喧伝しました。現代では、昌益は高校の倫理の教科書でとりあげられるほどの思想家として認知されていますが、もし狩野が『自然真営道』を発見しなければ、あるいはその真価を解さなければ、昌益は忘れ去られたままだったでしょう。

隠遁生活において、狩野は蒐鑑定を稼業としていました。それ以前にも鑑定の仕事はしていたようですが、大正八年に明鑑社を設立して以降、狩野はプロの鑑定士として活動します。学識のある人物らしく、鑑定士としての狩野は「科学的方法に拠る鑑定」を看板にかかげていました。その腕前のほうも確かだったようで、当時話題になっていた、神代のものとされる古文書の鑑定を依頼され、古文書の内容に関する詳細な論文をつけて贋作と断定しました。(ちなみに、この論文は「天津教古文書の批判」というタイトルで、現在はインターネットでも読むことができます。)この古文書に関しては、本依頼人に宛てられた鑑定書も展示されていました。

こうして、狩野は蒐書と鑑定にいそしみながら悠々自適の隠遁生活を送っていましたが、生活はかなり苦しかったようです。蒐書にお金がかかるため、狩野はもともと貧乏な生活を送っていたようです。それに加えて、大正のはじめごろ、狩野は後輩のすすめで「やすり」の会社の経営に携わったのですが、見事に失敗して多額の負債を抱えてしまいます。そのため、大量の蔵書を東北大学などに売り払わなければならなくなりました。狩野は貧しさのなかでも精力な晩年を送っていたようですが、昭和十七年、胃の病気のため七十八才で亡くなります。誰にもみとられることのない、孤独な死でした。

この寸評では狩野の足どりをたどってきましたが、その生涯はけっして目立たないものの、きわめて奥行きの深いものだったといえるのではないでしょうか。狩野自身の人柄や功績、取り巻く人々、明治から昭和にかけての激動の時代。本展覧会は、豊富な資料にそうしたことがらを語らせつつ狩野亨吉という人物の魅力を現代に伝える、すばらしい展覧会でした。

最後に、この展覧会がもつ意義に触れておきましょう。本展覧会は狩野亨吉の生誕150周年を記念して開催されました。メモリアルイヤーということで、2015年には、東北大学附属図書館において「狩野文庫の世界~狩野亨吉と愛蔵書~」展が、九州大学医学図書館において「九州大学附属図書館と狩野文庫―眼科学教室旧蔵本を中心に―」展が開催されました。東北大学と九州大学の展覧会は蔵書展という性格が強かったようですが、それらに比して、本展覧会は狩野の生涯に焦点を当てた内容となっています。

このような内容の展覧会が可能になった背景には、駒場博物館に所蔵されている膨大な数の文書類、通称「駒場資料」の存在があります。駒場資料は研究者垂涎の貴重な資料だそうで、それがこの展覧会を大変意義あるものにしています。また、これらの資料は狩野研究者だけではなく、明治時代の教育制度や日本思想史に関する研究においても重要になると思われますので、今後これらの分野においても活用されることが望まれます。なお、展示資料は駒場博物館のホームページ上にPDF形式で公開されていますので、そちらもどうぞご覧ください。

<参考文献>
青江舜二郎『狩野亨吉の生涯』明治書院、1974年
鈴木正『増補 狩野亨吉の思想』平凡社、増補版、2002年


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